元スピードスケート・自転車競技選手で、現在は参議院議員として活動をしている橋本聖子さん。
スケーター時代は日本代表としてオリンピックに出場するなど、幅広い活躍を見せていたのです。
そんな橋本聖子さんですが、実は生い立ちが壮絶だったことが判明しました。
橋本聖子さんが、この苦難にどのように立ち向かい現在に至るのか気になる方も多いのではないでしょうか?
そこで、橋本聖子さんの生い立ちについて詳しくまとめてみました。
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橋本聖子の生い立ちが壮絶!
橋本聖子さんは、1964年10月5日に北海道で4人兄弟の末っ子として生まれました。
当時は1964年東京オリンピックの直前だったこともあり、聖火にちなんで「聖子」という名前が付けられたそうです。
そんな橋本聖子さんですが、兄弟とは年齢差があるため幼少期から両親はもちろん、兄弟にも敬語を使って話していたそうです。
また、一番厳しかったのは父親で言葉よりも先に手が出ていたと橋本聖子さんは話しています。
厳しい父でした。子供は可愛い、だからこそ将来、辛い思いをさせないために父は厳しく接したと、後年母から聞きましたが、それは人によっては虐待と、とられかねないものでした。
馬場の下は砂地なので落馬しても、大したケガはしませんでしたが、父には激しく叱られる。私は父に鞭で叩かれました。
引用:https://news.goo.ne.jp/article/mag2/entertainment/mag2-487191.html?from=amp_web-article-link
橋本聖子さんの父親はとても厳しく、言葉より先に手が出るような人だったようです。
幼稚園に入る前からポニーで乗馬の練習をしていた橋本聖子さん。
練習中には、ムチで叩かれた事もあったそうです。
また、虐待とも捉えられるほど厳しかった教育方針について橋本聖子さんはこう語っています。
挨拶の時は、正座をして三つ指をつかなければいけない。ご飯を給仕して父に手渡すときは、必ずお茶碗に両手を添えて渡さなければ許されない。胃薬でも父が薬のビンに手をかけた間に、水の入ったコップを出さないと強い口調で怒られる。
引用:https://news.goo.ne.jp/article/mag2/entertainment/mag2-487191.html?from=amp_web-article-link
教育方針は家庭によって違いますが、本当に厳しい家庭だったのは分かりますね。
そして、3歳の時には父親の方針でスケートを始めました。
その後も小学校、中学校、高校でもスピードスケートを続け、中学校3年生の時には全日本選手権を初制覇、高校在学中には全日本選手権で優勝など好成績を残しています。
才能に満ち溢れた橋本聖子さんは、高校1年生の時に世界ジュニア選手権の日本代表に選ばれ、それ以降も日本代表として以下の功績を残しているのですよ。
大会名 | 競技名 | 種目 | 結果 | |
1984年 | サラエボ冬季オリンピック | スピードスケート | 女子4種目出場 | 8位以内(入賞に届かず) |
1988年 | カルガリー冬季オリンピック | スピードスケート | 女子5種目出場 | 全ての種目での本記録更新し、入賞 |
1988年 | ソウル夏季オリンピック | 自転車 | 初の冬・夏オリンピック出場 | |
1992年 | アルベールビル冬季オリンピック | スピードスケート | 女子5種目出場 | 1500mで銅メダル |
1992年 | バルセロナオリンピック | 自転車 | 女子3000m個人追抜 | 11位 |
1994年 | リレハンメル冬季オリンピック | スピードスケート | 女子4種目出場 | 3000mで6位 5000mで8位 |
1996年 | アトランタオリンピック | 自転車 | 女子3000m個人追抜 | 12位 |
1996年 | アトランタオリンピック | 自転車 | 女子2万4000mポイントレース | 9位 |
そして橋本聖子さんが30歳の時、当時自由民主党の幹事長だった森喜朗さんから「参議院議員に出馬をしないか」と薦められ、1995年の参議院議員通常選挙の比例区に立候補し当選。
それからは国会議員とスポーツ選手の二足わらじを履いていきます。
しかし、1996年のアトランタオリンピックの際に国会議員としてのオリンピック出場について、政界とスポーツ界の両方から批判されたことによりスポーツ選手としての幕を閉じました。
1998年には一般の男性(警察官)と結婚。
現在は、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長、同理事を務めています。
若い頃から腎臓病や呼吸筋不全などの闘病生活!
ここからは、橋本聖子さんの壮絶な闘病生活の真相に迫っていきます。
小学校3年生 腎臓病を患い2ヶ月入院
橋本聖子さんが小学校3年生になった頃、突然腎臓病になり入院。
これまでは、スケート生活も順調でいい記録も残せていた矢先のことで本人はもちろん、家族も驚きとショックが隠せなかったのではないでしょうか。
入院生活は2ヶ月だったそうですが、トータルの療養生活は2年も続いたそうです。
療養生活をしている間はスケートはもちろん、学校での体育授業も禁止されていたのだとか。
スケートが大好きな橋本聖子さんにとっては、とても辛い時期だったと思います。
高校3年生 腎臓病が再発
2年の療養生活を終え、中学2年生の時に本格的な練習が再開します。
それからは、病気のことも忘れるくらいスケートに打ち込む日々だったそうです。
しかし、高校3年生の時に腎臓病が再発。
橋本聖子さんは、練習ができないことや将来への不安がストレスとなり、円形脱毛症やストレス性呼吸筋不全症を併発し、自力で呼吸することも難しかったのだとか。
そこで、心療内科の治療が必要とされた橋本聖子さんは、精神科病院に移されることに。
ところが、不運なことに病院内でB型肝炎にも感染し、腎臓病とB型肝炎、呼吸筋不全症という三重苦に陥ったという壮絶なエピソードがあります。
そんな苦難から橋本聖子さんを救ったのは”体の不自由な子どもたちとの出会い”です。
リハビリを通して様々な病気と闘っている方と交流していく中で「自分の病気は治らない」ということを受け入れるようになります。
病気について受け入れた橋本聖子さんは心が軽くなって治療も順調に進み、奇跡的に選手として復帰できたのです。
以来、病気を受け入れて共存しながら生きることを心掛けているそうですよ。
苦難を乗り越え輝き続ける橋本聖子さん、とても凄いです!
まとめ
今回は、橋本聖子さんの壮絶な生い立ちや、若い頃の闘病生活についてをまとめていきました。
橋本聖子さんは父親に厳しく育てられたり、腎臓病やB型肝炎、呼吸筋不全症という三重苦に陥るなど壮絶な人生を歩んできたのを知ることができました。
そんな中でも、リハビリ中に出会った体が不自由な子どもたちとの出会いで、病気を受け入れることができたのが新たな橋本聖子さんの人生を切り開いてくれたのでしょう。
現在は病気だとは思えないほどの明るさを見せてくれています。
そんな橋本聖子さんの今後も注目していきましょう。
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